諏訪大社は蛙神事を公然とすることが出来なくなりました。
大晦日の11:30から、元旦午前1時まで、まず夜間の示威行動を行いました。
シュプレヒコールをあげ、通行人に声をかけていきました。
足を止めてくださる方がたくさんおられました。
元旦の朝には7:30から9:30まで、一昨年の正月まで神事の行われてきた御手洗川の流れの中や、ほとりに立って、蛙の着ぐるみを着て、風船やプラカード、ゼッケンを付け、横断幕を掲げて示威行為を行いました。
神事の行われる現地に行くと、縄が張ってあり(昨年から)、このような立看板が設置されていました。
警察の方や見回りの氏子さんが数人いました。
氏子さんは何人かいましたが、去年よりずっと数は減っていました。
私たちは、諏訪警察署から次の許可証を得て、集団示威行動を行いました。
公安条例の許可証を取り、私たちは、堂々と法のもとで、訴えを行いました。
御手洗川に入ったとき、勝手に入るなと氏子さんに怒鳴られましたが、むしろ、御手洗川は、諏訪市が管理する公共物なので、誰が入ってもよいのです。しめ縄を張って、第三者に立ち入りを禁じるような行為を行う諏訪大社のほうにこそ、違法であり、問題があります、と大声でお伝えしました。
ちなみに、諏訪大社は昨年までも御手洗川にこのような結界を張っていましたが、
諏訪市公共物管理条例に基づく許可は取っていませんでした。
昨年はこのことを地元の新聞社である信濃毎日新聞社の記者に話しました。その記者は、昨年は同紙に諏訪大社に関する連載記事を書きましたが、諏訪大社のこの問題行動には触れませんでした。
一昨年はその他の地元メディアも、川には誰でも入ってよかったにも拘わらず、川に立ち入ったことを糾弾する記事を書き、諏訪大社の七不思議等の迷信にまったく無批判な内容で、度肝を抜かれました。
御手洗川の上流から氏子さんが何人か下りてきて、私たちの周りにいた氏子さんたちもいつの間にかいなくなりました。
午前9:30頃に、橋を塞いでいた縄が解かれました。
このことは、神事が終わったという意味であります。
諏訪大社では、一般に公開することなく、密かにどこかで蛙狩神事を終えてしまったのでした。
昨年は、太鼓の音とともに神官たちがぞろぞろ下りてきてきて、そのまま御手洗川に来るのかと思いきや、突然途中で右の山の方に消えていってしまいました。後になって、御手洗川の上流の方のどこかで、神事が完遂されたと伝え聞きました。
が、今年は太鼓の音も聞こえなかったし、神官の行列を見た参加者もいませんでした。
神事を行うには、七不思議のあの場所が必要だったはずです。
ところが場所を放棄したうえ、非公開で秘密裏に行うということは、ただの蛙の殺害行為に堕してしまったということです。
神事として意味がないことがはっきりしました。
公然とやらないなら、本物の蛙を殺す意味がないのです。
去年も今年も、氏子さんの声が響きました。
「殺すことに意味があるのだ」
理解できません。
人形ではいけない、と。
殺すことに意味がある、とは?
不殺生の道を行くことを目指せないでしょうか。
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(動物愛護法1、2条より)
国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する、、、(略)
ことを目的とする。
動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。
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